「なぜ人を殺してはいけないのか?」を考える
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人を殺すということは、命を奪うということである。
よって、「奪って奪われる」の原則で考えれば、
人を殺した報いは、同じように命を奪われることとなる。
命を奪われることが趣味な人など存在しない。
誰もが誰かに殺されたくないわけであり、であれば、
「自分が人からされたくないことは、人にはしない」が鉄則である。
ゆえに「人に殺されたくないから人を殺さない」が最もな理由である。
こういう問題を考えると「自殺する人は人を殺してもいいのか?」
という疑問が挙がってくる。死んでしまえば復讐されることはない。
よって、自殺覚悟の人は何でもできてしまうことになる。
そして本当に、自殺覚悟の人は何でもできてしまうのだ。
そこで「死後の世界」を概念として導入し、時間を無限に拡張する。
となると、自殺した人に対しても復讐できるようになる。かつ、
時間だけでなく、情報も無限に拡張して考える。情報が無限になる
ということは、至る所に情報が満ち溢れ、「誰もが、知りたいことを
知りたいときに知ることができるようになる」ということである。
これは、プライバシー保護よりも情報共有を優先することを意味し、
もっと言うと、心の中の思考レベルで情報共有されることを意味する。
そうなれば、誰がどこにいるのかも完全に情報共有されてしまい、
身を隠すこともできなくなるのである。よって、自殺して逃げたつもり
になっている人も、確実に復讐されることを覚悟しなければならない。
もし、このような考えが現実のものとなれば、やはり、
「人に殺されたくないから人を殺さない」が鉄則といえる。
人を殺すとは、「自分がされて嫌なことを人にすること」に相当する。
自分がされる覚悟がないのであれば、それを人にするべきではないのだ。
ここで注意したいが、自殺する覚悟と人に殺される覚悟は別物である。
自殺とはあくまで、死にたい人が勝手に死ぬというだけの話なのだ。
「もう死んでもいい」という人が勝手に死ぬのと、
「まだ生きたい」という人が未来を奪われることはまるで違うのである。
自殺では人を殺した罪は償えないのだ。
加えて、誰かを助ければ殺めた分を相殺できるという話でもない。
助けたこと(与える)に対しては、助けられる(与えられる)が、
それとは別に、殺したこと(奪う)に対しては、殺される(奪われる)のだ。
「与える」ことと「奪うこと」も別物なのである。
それでも世の中から殺人事件がなくなる気配はない。
もしこの世がゲームのような世界で、
殺す殺されるが軽い行為であるなら何の問題もない。
しかし生身の人となると、そういうわけにはいかないのだ。
・・・。
少し視点を変えて、神様の観点で考えてみる。
すると、人が人を殺すことは想定された行為の一つと分かる。
もし神様が、人を殺すようなことを本当にしてほしくないなら、
そもそもそんなことはできないように世界を創るはずなのだ。
ゆえに、「できるということは想定されている」ということを意味する。
例えば、人を殺すことはできても、地球を壊すことはできない。
神様からして、地球は壊してはいけないことになっているのだ。
その上で、他人にしたことは還ってくるようになっているのである。
「奪って奪われる」の原則に従い、やったことは復讐されるのだ。
つまり、人を殺してはいけない理由は神様にあるのではなく、
あくまで人間側にあるのであり、神様と罰は関係しないのである。
そして、本当に怖いのは神様などではない。実際「神様のお許し」
など何の役にも立たないのである。なぜなら、人を裁くのはいつだって
人だからだ。拷問、虐殺、戦争、人体実験、本当に怖いのはいつだって
人間なのだ。