善人か悪人かは相対的に決まる
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「善」とは与えることであり、「悪」とは奪うことである。
そして、与えれば与えられ、奪えば奪われる。これは、
「与えて与えられる」「奪って奪われる」の原則である。よって、
善いことをする人は善いことが返され(善因善果)、
悪いことをする人は悪いことが返される(悪因悪果)。
ここで、善悪が与える奪うであるならば、
善人・悪人という評価は環境に対して相対的なものだと分かる。例えば、
悪人の数があまりにも多すぎると、悪人は悪人ではなくなるのだ。
その環境においてあまりにも多くの悪人がいるということは、
奪われて当たり前の環境になってしまっているということである。よって
その環境では、奪われれば「奪われた方が悪い」という解釈になる。
例えば、外国では、自動販売機はそれほど設置されていない。
自動販売機は、見方を変えれば軟弱な金庫でしかなく、
設置したところで、すぐに壊されお金を盗まれてしまうのだ。
日本のように、津波に流された金庫が持ち主に返される、
などということはそうそうない。他の人も奪っているわけであり、
奪えるチャンスを見逃すことは、損をすることを意味するのである。
その環境においては、ちょっとした程度の悪人は悪人ではないのだ。
逆に、善人が多い環境では、ちょっとしたことでも悪人にされてしまう。
「消しゴム1個」万引きしただけでも立派な犯罪になるのである。
日本で、自動販売機を破壊し金銭を強奪したとなれば、
「そんなところに自動販売機があるのが悪い」などとは言えないのだ。
つまり、善人とされるか悪人とされるかは、環境によるのである。
その環境に悪人が多ければ善人と判断されやすく、
その環境に善人が多ければ悪人と判断されやすいのだ。善悪は、
その環境における「与える人」と「奪う人」の比率で決まるのである。
これは丁度、偏差値60の学生が、偏差値70の学校では落ちこぼれ、
偏差値50の学校では優等生の扱いになることと同じである。
ただ、悪人の多い環境で善人と評価されたとしても、
環境が変わり続ければ、いつかは悪人とされるわけであり、
どのみち裁かれることに変わりはない(早いか遅いかでしかない)。
上手くやれば「奪っても奪われない」などということはないのだ。
また、善悪の水準は、時代の進歩の影響を強く受けている。
というのも、時代が進歩すれば技術も進歩し、
機械による大量生産が可能になり、物価が安くなるためである。
となれば、物資が容易に手に入るようになり、人に与えやすくなるのだ。
人の物欲は、欲しい物をまったく手にできていない状態では、
強くそれを望み人から奪おうとすらする。一方、欲しい物が手に入り、
それに満足してしまえば、それ以上を望むことの方が難しくなる。
よって、物資が少なければ犯罪は多発し、逆に物資に満たされれば、
罪を犯そうとする気持ちすら湧き起こらなくなるのである。つまり、
環境が物資やサービスで満たされることで善人が増えるのである。
心の美しさも大切だが、人を醜くさせているのは環境の力が大きいのだ。