罪とは奪うこと、それに対する罰は奪われること
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心の現象を物理現象と見立てて力学で捉えれば、
「罪」とは、心に対し、望まない方向へ加速度を生じさせることとなる。
罪に対する「罰」とは、罪によって生じた望まない心の慣性により、
成長が遅れてしまうこととなる(成長に対する抵抗が罰)。
よって、労力をかけ、心の慣性を正すことで罪滅ぼしとする。
対して、人間関係の観点から原則で照らし合わせて見れば、
「罪」とは、誰かから奪うこととなる。
罪に対する「罰」とは、誰かから奪われることとなる。
よって、誰かから奪われることで罪滅ぼしとする。
このように、罪と罰は、
「力学的な見方」と「原則的な見方」の2種類の見方ができる。
自分を心として見れば、罰は自業自得であり、力学的な見方となる。
自分を人として見れば、罰は因果応報であり、原則的な見方となる。
ここでは罪と罰を因果応報で捉え、原則的な見方で解釈する。
罪にも重い軽いがある。罪の重さとは奪ったものの大きさである。
金や物のみならず、その人の命や未来を奪ったとなれば罪は重い。
当然、奪えば奪うほど、それだけ誰かから奪われることになる。
ただ、「奪って奪われる」では、奪った分だけ奪われるわけではない。
基本的には増し増し(125%返しのように)で奪われていくわけであり、
ゆえに、罪を犯せば犯すほどそれだけ失うことになるのだ。
これが原則の観点から見た「罪を償う」ことに相当するのである。
この「罪を償う」における目標は「他人から許されること」である。
「他人から」であって「奪った相手から」ではない。というのも、
罪に対する復讐は、奪った相手からされるとは限らず、
いつ誰からされるのか分からないのだ。つまり罪とは、
目の前の相手だけでなく、人類に対して犯していることに等しいのだ。
このとき復讐しすぎると、「やりすぎだ!」ということで、逆に
復讐した側が、相手かそれ以外の誰かから奪われていくことになる。
「奪って奪われる」の流れで復讐は連鎖するのだ。
もし、誰からも何も奪われていない人が復讐を代行すると、
「何もされていないにも関わらず人から奪った人」ということになり、
代行で復讐した分は、誰かから奪われることになるのである。
正義の味方を気取っていたら、いつの間にか極悪人になりかねないのだ。
相手が罪人(奪った人)だからといって、無条件に奪っていいわけはなく、
その相手から奪おうとする以上、自分も悪人になるのである。
自分が善人であろうが、相手が悪人であろうが、
「奪って奪われる」の原則は、誰に対しても平等に働くのだ。
人から奪う以上、奪われることは覚悟しなければならないのである。
これは、他の人も奪っているからといって便乗して奪った場合も
同様である。他の人も奪っているなら、同じように奪ったとしても、
その場で咎められるようなことはないのであろう。しかし、
確実に自分は誰かから奪ったわけであり、この事実は残り続け、
遠い将来、善悪の基準が変わったときに復讐されるのである。
総括すると、罪を犯せば、それと同じ種類の苦しみを、自分がした
以上に味わうことを覚悟しなければならない、ということである。
ただ厄介なことに、奪ったことに対して奪われたとしても、
「あの時のあの罪に対する罰だ」とはっきりと分からないことが多い。
ゆえに一方的に奪われたと感じ、相手から奪い返そうとして、
「奪って奪われる」の悪循環が深まっていくのである・・・。