善とは与える心、悪とは奪う心
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自分のことを「善人」だと思っているだろうか?
それとも「悪人」だと思っているだろうか?
自分が善人か悪人かは、見る人によって異なる。ある人からは善人
と評価されても、別のある人からは悪人と評価されてしまうのだ。
善悪の基準は、評価する人によってころころ変わるのである。
これは「見たいように見る」の原則である。
そして人の善悪の感覚も、時代によってころころ変わるのである。
昔は「善」とされていたものが今では「悪」ということはよくある。
覚せい剤が薬局で堂々と売られていた時代もあったくらいなのだ。
しかし、善悪に従って生きている我々からすると、
そのように善悪の基準がころころ変わるというのでは、
何を善と信じて生きていけばいいのか分からない。
いつの間にか善悪の基準が変わり、自分は善だと信じて成した
にも関わらず、周囲からは悪だと批判され、その償いを求められる、
というようなことがあっては、安心して生きていけないのだ。
もし「変わらない善悪の基準」というものがあるのであれば、
それが何なのか是非とも知りたいところである。
ここで、難しい言い方をするが、
「変わらない」とは、状態遷移が定常化することを意味する。
これは、進歩において時間を無限で極限を取ったものと見なせる。
つまり、進歩に伴う変化を押し進めて考えればいいということである。
そして、そのような状態として「天国」という概念が考案された。
「天国」とは、定常化した世界であり、情報技術が格段に進歩し、
思考レベルで他人と繋がることができるようになった状態である。
ゆえに、隠し事はできないし嘘をつくこともできない。つまり、
与えれば確実に与えられ、奪えば確実に奪われる世界なのだ。
・・・。
そのような定常化した世界を絶対的な基準とすれば、
時代がどれだけ変化してもブレることのない善悪の基準となるのである。
この基準を指針とすれば、生き方も安定するだろうと考えられたのだ。
この絶対的な善悪の基準に照らし合わせて善悪を考察すると、
「相手に与えることは善、相手から奪うことは悪」と導ける。
実にシンプルである。ここからさらに考えを深めれば、より具体的な
基準に落とし込むことができる。ただこれらは、わざわざ導かなくても、
本当は誰もが心の中では知っていることである。
少し表現を変えて、「信頼残高」という概念で善悪を説明すると、
善人は信頼を得る力が強い人であり、悪人はその逆の力が強い人を指す。
その結果、善人は信頼残高が多くなり、悪人は借金状態に陥る。
そして、信頼(心のお金)が満たされている人ほど、実際のお金の方も
満たされているものである。心の貧しい人は、財産も貧しいのだ。
なぜなら、人に与えようとしない以上、人から与えられないためである。
【補足】
「善」「悪」自体は感覚である。つまり「結果」である。対して、
「与える」「奪う」は行為(業)である。つまり「原因」である。
すなわち、「与える」という原因が「善」という結果に結びつき、
逆に、「奪う」という原因が「悪」という結果に結びつくのだ。
そしてこの善悪の判断は相手によるのである。