人は神を創造した



  • どうも人は縛られるのが好きなようである。自分を縛る何か
    がなければ落ち着かないのか。この自分たちを縛る代表的なものが
    「神」という概念である。世界を創り人を創ったとされる創造主である。

    しかし、この「神」という概念を創造したのは、他ならぬ「人」である。
    つまり人は、自ら生み出した概念によって自らを縛っているのである。

    「あなたは神の存在を信じますか?」という質問があるが、
    これはあまり有益ではない。なぜなら、この宇宙の形はすでに
    決まっており、神が居ようが居まいが、我々の日常生活は何一つ
    変わらないからだ。神の存在の有無自体はどちらでもいいのだ。
    問うべきは、神の存在の有無ではなく、我々への影響である。

    よく「神がお与えになった試練」のようなセリフが出てくるが、
    ・・・、思うのだが、その試練、自分で作ったものでは?
    挑戦すると決めたのは自分、逃げると決めたのも自分、自分なのだ。
    間違ってデータを消してしまったときも神の試練とか言うのかな?
    いつまでも神様に責任転嫁していてはいけない。

    また、我々は、九死に一生を得るような出来事があると、
    助かったのは「神の御加護」によるものだと思おうとする。
    奇跡的に助かったとなれば、助からないことが普通なわけで、
    そう考えると怖いが、不幸にならなかった理由を神に求めることで、
    不幸にならざるしてならなかったのだ、と安心したいのである。

    そして人は、楽して得しようと、神にすがり付いて甘えるのである。
    「信じれば救われる」というのは、その代表例である。信じるだけで
    救われるのだから、これほどコストパフォーマンスの高い行いはない。
    そうした信仰が積み重なって「選民思想」となり、やがて、「自分たちは
    特に何も努力はしてないけど凄いんだ!」と思い込めるようになる。

    こうやって人は都合よく神を利用してきたのである。
    ただ、昔は何をするにしても命がけの時代であったため、
    神の信仰は必須だったのだ。今のように技術も法律も整っておらず、
    犯罪の捜査も未熟であり、信仰に頼らざるを得なかったのである。
    人々を統制し、秩序を守るためにも、神の信仰は必要だったのだ。

    最後に、「神仏」という言葉がある。文字通り「神」と「仏」である。
    並べられているが、そもそも「神」と「仏」は別々の概念である。
    「西洋では神と言い、東洋では仏と言う」というものではない。

    まず「神」とは、この世(宇宙)が生まれた原因であり、そして、
    変わらぬ法則(原理・原則)を指す。すなわち「自然」そのものである。
    対して「仏」とは、仏教が定める水準をクリアした「人」である。
    人である必要はないが、少なくとも意思を持った生き物である。
    ※神は無生物、仏は生物である。

    仏とは信仰すべき対象などではなく、目指すべき対象なのだ。
    だからこそ仏教では、仏を目指し、仏に成ろうと努力する(成仏)。
    対して、神は信じるべき対象であり、使いこなすべき法則でもある。

    当サイトでは、原理・原則を理解し、神の如く信仰し、
    日常生活に当てはめ、人生の幸福の向上を目指している。
    あなたもどうだろうか?