命の重み、重い命と軽い命
-
「命は地球よりも重い」という人がいれば、
「金は命よりも重い」という人もいる。命は大切である。
だが、この世に命より重いものはいくつかある。
例えば憲法である。もし憲法が他国から侵されるようなことがあれば、
戦争になる。戦争になれば多くの国民の命が失われる。
国家は国民の命を犠牲にしてでも憲法を守ろうとするのだ。
とはいっても、普通に生きていく分には、命はもちろん重い。
命とは時間である。時間があればいろいろなことができる。
努力し続ければいつかは報われ、大金持ちになれるかもしれない。
それもこれも命があるからこそできることなのだ。命は重いのである。
ここで、命の重さは責任の大きさに比例すると考える。
そして、責任の大きさは自由の大きさであり、かつ、
自由の大きさは知能の高さに比例する。ゆえに、知能の高さに比例して
命は重くなる。および、責任に比例して罪が重くなる。つまり、
知能の高い人(というより生き物)ほど、命も罪も重くなるのである。
刑法第39条には、責任能力がない者に対して罪を問わない
とする定めがある。精神鑑定の結果次第では、人を殺しても罪に
問われないわけだ。「そんなことが許されるか!」という話であるが、
国家として、責任能力なき者に対して、罪の償いは強要できないのだ。
※極刑の望まれる重犯罪に対しては刑法第39条は適用されにくい。
通常、罪を犯した場合、罪を償うことによって信頼を回復させ、
その責任能力に相当する自由が認められるものである。しかしもし、
罪を償えないとなると、強制的に復讐されるしかなくなるのだ。
つまり「責任能力がなければ罪には問えない」が、それと同時に、
「責任能力がないがゆえに傷つけても構わない」ということになる。
例えば、相手が動物であれば、迷惑行為に対して罪を償ってもらう
ということはできないため、勝手ながら駆除することで対処する。
人を殺した犯人が人であれば、犯人に罪を償うことを求めるが、
動物であればそうできない。よって殺されたことに対して殺すのである。
基本的に、知能が低ければ責任能力も低く、自ら罪を償えないのだ。
知能の高い順(命と罪の重い順)に生き物を大雑把に並べると、
「宇宙人→人間→動物→魚介類→昆虫→植物」のようになる。
この順は「責任能力がなく罪に問えない順」であると同時に、
「責任能力がないがゆえに傷つけても構わない順」でもある。
法律でも、動物をむやみに殺せば罪に問われるが、植物であれば罪に
問われない。罪を償えないとは、何をされても文句が言えないということ
なのだ。以前、この流れに逆行して、動物愛護精神が強いあまり、人を
殺してしまったという人がいたが、殺した相手が人となれば、当然
それなりの報いを受けることになる。人は動物より重く怖い存在なのだ。
さきほどの順序では、人を「人間」と一括りにしたが、同じ人であっても
知能には差があり、ゆえに命の重みにも差があると言える。いやむしろ、
自分と命の重みがまったく同じ人など、いないのではないだろうか。
つまり、あなたと私とですら、命の重みには差があるということである。
だがこれは今に始まったことではない。昔から本当はそうなのだ。
最後に、国が発展し生活が豊かになると、残虐行為を禁止する対象が、
より知能の低い方へと推移する。拷問や人体実験など、これまでは
人間に対する残虐行為を問題視してきた。だがこれからは、人間ではなく
動物に対する残虐行為が問題視されていく。その代表的なものが、
「毛皮産業」「動物実験」「食肉産業」「ハンティング」などである。
原理・原則の観点からも本当のところこれらはよろしくないのだ。
例えば「奪って奪われる」の原則がこれに当てはまる。