自由と責任、そして罪と罰
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「自由」の大きさは「責任」の大きさであり、
「責任」の大きさは「信頼」の大きさである。
そして、責任の伴われない自由など存在せず、逆に、
自由がなければそもそも責任など発生しないのである。
自由とは、責任に応じた範囲で何をやってもいいことを意味し、
もし自由の結果として罪を犯してしまった場合は、
信頼を失いたくなければ、責任として罰を受けなければならない。
原則に基づけば、「奪った」罪に対する罰は「奪われる」である。
つまり、失敗すれば取り戻せばいいだけの話なのだ。
罪を犯してしまったのであれば、潔く認めて罰を受ければいい。
罪を犯したとしても完全に自由が失われるわけではない。
もし罪を償わなかった場合に、信頼が失墜して自由が失われるのだ。
原則で照らし合わせると、「罪を償う」とは「奪われること」を意味し、
決して「与えること」ではない。「奪われる」と「与える」の違いは、
失うタイミングと量を決める人にある。与えるとは、与えたい人が
与えたいときに与えたいだけ与えるものである。対して奪われるとは、
奪いたい人が奪いたいときに奪いたいだけ奪うものである。
どのように失うかを自分で決められないことは苦痛なのだ。よって、
「与える」と「奪われる」では苦しみが違うのである。したがって、
例えば人を殺したとなると、人を助けるでもなく、自殺するでもなく、
死にたくないにも関わらず急に命を奪われることで償いとできるのだ。
つまり、「奪ってくれる人」がいなければ、罪滅ぼしできないのである。
もし罪滅ぼしできないとなると、その人の扱いはより低級なものとなる。
低級とは、意思を尊重する必要のない、無生物に近い側を指す。
「意思を尊重しない」とは、責任能力がないとして、
自由を認めないことと引き換えに、責任(罪)を問わないことを意味する。
この判断は、裁かれる側の意思に関係なく、裁く側が行う。
例えば、人が人を殺したとなれば、殺した人が罪を問われるものだが、
もし動物が人を殺したとなれば、その動物を罪に問うことはせず、
逆に殺された側に、不注意だったとして責任が求められるのである。
自動車事故同様に、責任をとるのは自由の大きい方なのだ。
そして、「自由が認められない」とは、例えばさきほどの動物の場合、
どうにもならなくなれば、問答無用で駆除されることになる。
責任能力がない以上、相手の意思を尊重したりはしないのだ。
これは相手が人であっても同様である。
何にせよ、責任能力がないからといって、無条件で罪が許される
などということはあり得ないのだ。責任能力がないということは、
その相手を尊重する必要性が薄いことを意味している。
「人→動物→魚介類→昆虫→植物→無生物」と責任能力は低くなる。
※人と一括りにしているが、当然、この中でも顕著な差がある。
責任あっての自由であり、そして尊重なのだ。
「責任は取らないが自由と尊重を求める」ということは、例えば、
昆虫を人と同じ扱いにするのか、という話と同じである。
責任能力がなければ、自発的に罪を償うことが期待されない
というだけで、その場合は、自由を認めないことをもって
強制的に制裁を加えるだけなのだ。責任能力の有無に関わらず
「奪って奪われる」の原則は成り立つのである。