F=maと三業と自業自得
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三業とは、その名の通り、三つの業である。三つの業とは、
意業: 思考すること、決断すること、想像することなど
口業: 言葉にすること、喋ること、文章を書くことなど
身業: 行動すること、実行すること、創造することなど
を指す。私たちの行為はこのいずれかであると説かれている。
ここで、業とは心に変化をもたらすこと(その原因=行為)である。
「変化する」とは「加速度aが生じる」ことを意味する。
そして心には質量mがあり、経験に比例して大きくなる。
それにより力と変化の関係が定まる。
どのような変化であっても、変化させるためには、力が必要である。
そして、その力Fの大きさに比例して変化aも大きくなる。
大きく変えたいなら大きな業が必要だということである。
および、心の質量mにも比例して業を大きくしていかなければならない。
仏教では、力Fに相当する行為(業)が、上記の三業(意業・口業・身業)
に分類できると説いているのである。一方、自業自得とは、
自分の業が自分の得るものになるという意味である。自業が努力、
自得が自分の得るもの、つまり自分の未来を指す。したがって、
努力した方向に向かって未来が作られていくことを示している。
業は様々で、意識する業もあれば、意識しない業もある。ただし
どのような業であっても、心に変化を生じさせ心の慣性となるのである。
また、変化の方向は加えた力と同じ方向になる。
つまり、努力した方向へ変化するということである。
自業自得とは、そのような自業が自得になると、
業と得の間には関係があると説いているのである。
つまり「運命は神様が決めたもの」ではないということである。
「どうして私がこんな目に・・・」と自身の境遇を嘆く人もいるが、
なぜそうなったかはあなた自身に原因があると説かれているのだ。
例えば、周囲から嫌われている人がいたとして、
その人が周囲から嫌われ孤立している原因は、
他ならぬその人自身にあるのであって、
どんなに高価なパワーストーンを身にまとったとしても
改善(周囲の人が率先して態度を変える)などされるわけもなく、
その人自身が考えを改め自らを変える努力(自業)をしない限り、
周囲と打ち解け合える人間関係は作れない(自得)ということである。
どうして周囲の人は自分に冷たいのか、その原因は自分にあるのである。
自業によって心に変化が生じ、それがそのまま慣性となり、
その慣性によって誰かにしたことで誰かからされる(因果応報)のだ。
誰かにしたことが、誰かに与えることであれば、
誰かから与えられることになり(与えて与えられるの原則)、
誰かにしたことが、誰かから奪うことであれば、
誰かから奪われるのだ(奪って奪われるの原則)。
ここでは、三業と自業自得という二つの考え方を取り挙げたが、
三業と言った場合の業には力の意味合いが強く、
自業自得と言った場合の業には慣性の意味合いが強い。
だがどちらにせよ、自分の行いを指していることに変わりはない。
そうした行いによって未来が作られているのである。
そして、些細な思考から日常の人間関係に至るまで、
心にF=maの関係が常に成立しているのである。