存在と感覚
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自分という存在は本当に存在しているのだろうか?
そんな疑問を持ったことはないだろうか?
もしかしたら目の前の世界はすべて架空の幻想かもしれない。
しかしそれが本当に幻想だと証明することはできない。
自分という存在は本当に存在しているのか、
考えたところで答えはでない。だが、少なくとも、
「考えている」という感覚は、自分にとって疑いようがない真実である。
「我思う、ゆえに我あり」
というのは哲学者デカルトの有名な言葉である。
「思っている」ということは、そのような自分は確かに存在している、
ということであり、考え感じる以上、存在は否定できない事実なのだ。
これは絶対的に正しいこととし、「哲学の第一原理」とされている。
分かりやすく言うと、例えば、
「痛いと感じている人にとって、その痛みは否定できない事実ですよ」
ということである。
もし痛みが偽物なら、この世に麻酔も拷問も存在しないだろう。
「では今から麻酔なしで親知らずを抜歯しようと思いますが、
痛みなんて本当は存在しない偽物の感覚なので、
気にする必要はありません。よろしいでしょうか?」
と言われて、手術を受けられるかという話である。
痛みとは、自分にとっては確かに存在する感覚であり、
否定したくとも否定できるようなものではないのだ。
加えて、自分にとっては事実であっても、他人にとっては事実ではない。
自分がどんなに苦しんでも、他人にその苦しみは伝わらないのだ。
つまり、痛みという事実は、自分の中だけの事実でしかないのである。
ここでは痛みを取り挙げたが、痛みだけでなく、
光、音、臭い、温度、圧力、興奮、怒り、憎しみ、愛情などなど、
ありとあらゆる感覚(心の変化)が自分のとって真実なのだ。
見方を変えると、私たちが干渉(認知や意思決定)できる世界は、
感覚でしかないということでもある。
感覚こそが世界の実体であると同時に、
感じるということでしか世界を味わえないのだ。
人体で感覚を生み出しているのは脳である。だからこそ、
「脳」こそが「自分」だと考えられているのである。この脳が、
「社会は腐った」と感じたり、「人類は滅びる」と感じたりするのだ。
せいぜい15cm×15cm×15cm程度の空間内に納まるこの脳こそが
感覚の源であり、私たちにとっての世界のすべてなのだ。
そして、感じるためには変化が必要である。
というよりも変化しているものほど強く感じる。
※もし感覚がなくなると脳は誤作動する。
これは、発電のようなものである。
コイルの中で磁石が回転すると誘導電流が発生する。
誘導電流は磁石の回転が速ければ速いほど多く流れ、
磁石が止まってしまえば誘導電流も流れない。
同様に、変化しない対象を心は感知できない。
自分が感じているもののすべては変化したものということになる。
感じたものが自分にとってのすべてである以上、
すべてのものは変化していると言える(諸行無常)。