真理の探究
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人類は昔から真理を探究してきた。
「自然科学」「人文科学」「数学」「哲学」「宗教」と
自然を考察し仮説を立証し、知識を体系化し理論を構築してきた。
しかしながら、そもそも真理とは何なのか?
なぜそんなに追い求めるのか?
真理など探求しても人生は楽にならないのではないか?
「人生、楽しめればそれでいい」という人からすると意味不明であろう。
まず真理とは、変わらないもののことである。
質量の大きいものは動かしにくいとか、力は変化を生じさせるとか、
はたまた地球が太陽の周りを回っていることも、真理と言えなくはない。
こうした現象を観測し、知識を体系化し、理論を構築してきたのである。
ではなぜ、変わらぬ真理を探求し明らかにしていくのか?
それは、変わらないことが安定を意味しているからである。
知識は積み重ねであり、もし土台の知識が成り立たなくなると、
その上に築き上げられた知識もすべて成り立たないことになる。
だから人類は正しさを求め正しいことを追求してきたのだ。
そして真実へは「疑う」ことによって近づくことができる。
疑うとは頭を使うということである。疑うの反対は「信じる」である。
信じるとは、ある意味、頭を使わないことを意味する。
「迷わぬ者に悟りなし」の如く、疑わない者は真理に近づけないのだ。
しかし頭を使わない人の思考パターンは単純で、
脳がROM(Read Only Memory)のようになっている。
つまり、最初に聞いた知識をただ一度だけ無条件で受け入れ、
その後は如何なる知識も無条件で拒否する思考パターンである。
思い当たる節はないだろうか?
例えば、誰もが一つは言語を扱えるが、二つ目以降は習得が難しい。
もしくは誰もが一つは宗教を受け入れるが、二つ目以降は受け付けない。
はたまたSNSのデマ情報に流されるのもこの類である。最初に知ったこと
を信じ、「それはデマだ!」と正されても、もう頭に入らないのだ。
ではどうして、ROMのような頭になってしまうのか?
それは、一言で言うと、「頭を使いたくないから」である。
二つ目の知識を入れる際は、一つ目の知識を疑わなければならなくなる。
反対に、一つ目の知識は入れないとなると、入れない理由が必要になる。
よって、最も思考を要さないパターンは「最初に聞いたことを信じる」で
あり、何も考えずに生きていれば、頭はROMのようになってしまうのだ。
逆に、頭を使っていれば、やがて知識に感覚が伴われるようになる。
感覚が宿ってこそ、知識は役に立つ。
自分にとって真に役に立つ知識はそれなりの代償と引き換えに手に入る。
楽して手に入れた知識に価値はない。
なぜなら、頭の片隅に知識としてあったとしても、
いざというときに出てこないからである。
感覚の伴われない知識はチャンスやピンチの際に役に立たないのだ。
そして、知識は使って初めて価値が出る。数学も宗教も、目的を達成する
ための手段でしかない。例えば数学では、数学的な真理は追求しつつも、
それを物理学や統計学のような他の分野へ応用する。
宗教についても同様で、そもそも宗教は意思決定のための体系であり、
ゆえに政治や経営、もしくは人生論として活用される。
結局どちらも手段のための体系でしかなく、
何かに応用して初めて価値を持つのである。
苦しんで手に入れた知識を有効に活用してこそ知識の味が出るのだ。