復讐は天国に行ってからが本番
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「天国」とは、その空間におけるコミュニケーションのしやすさの程度
であり、軸であり、コミュニケーションのコストパフォーマンスを指す。
もしくは、伝わりやすい空間を指して「天国」と言う。
※「天国」という単語は、軸もしくは空間を指す言葉として用いる。
※あの世という意味ではない。
拷問、虐殺、強盗、殺人、強姦、詐欺、などなど、
バレないことを前提に罪を犯し欲を満たし続けてきた人は、
それがバレたときに一瞬にしてすべてを失う。そして、
信頼回復のために、絶望的なまでのコストを支払う羽目になるのだ。
ただ、幸いなことに、やったこと以上の苦しみはそうそう還ってこない。
せいぜい、多くを失う程度で済むのだ。例えば、相手の目を潰したなら、
同じく目を潰される程度でよい。最悪2つ差し出せば済むはずである。
自分がしたこと以上の苦しみはそうそう還ってこないのだ。なぜなら、
あまりやりすぎると、結局、相手もそれだけの復讐を受けるからである。
ここで、復讐は、必ずしもやった相手からされる必要はない。かつ、
された相手にやり返す必要もない。それはあまりにも非効率である。
復讐は似たような相手でいいのだ。これは、犯罪が特定の個人に対する
ものではなく、人類に対するものとの考えによる。つまり、犯罪者は
みんなで苦しめるべきであり、被害者はみんなで助けるものなのだ。
となれば、相手の善意に期待することは無意味である。というのも、
仮に相手が許しても、他に復讐してくる人はいくらでもいるからだ。
古来より宗教では、地獄は恐ろしい世界のように説いてきた。
だが本当に恐ろしいのは人の心であって、地獄ではない。
拷問するのも、虐殺するのも、人体実験するのも、人である。
悪魔がいるわけでも、閻魔大王様がいるわけでもない。地獄よりも、
自分は善人で正義と信じてやまない人の心の方がおぞましいのだ。
心が醜いのは、貴族も農民も奴隷も悪人も善人も皆同様である。
貴族はその立場によって守られているにすぎない。よって、
革命が起こり貴族の身分が失墜した際、恨まれていた貴族ほど、
農民の手によって片っ端から容赦なくギロチンにかけられた。自分は
守られて当然と思っている人の苦しむ姿は、見ていて気持ちいいのだ。
仮に生前は王様や奴隷という立場であったとしても、そんなもの
死ねば関係ない。純粋に精神的な力量で強弱が決まるのだ。
これはちょうどお芝居に似ている。劇の中では王様役が強いが、
裏側では、奴隷役の方が先輩で、王様役が叱られることもある。
生まれで将来は大きく変わるが、死ねばそれも関係なくなるのだ。
そして、この世でもあの世でも「奪って奪われる」の原則は成立する。
そこに人の心がある限り、「やったらやり返される」ことは真理なのだ。
もし、生前、権力者が奴隷の肉体をバラバラにしたのであれば、今度は、
その権力者が奴隷から魂の構成要素をバラバラにされる番なのである。
生まれでたまたま強弱が決まったこの世とは異なり、あの世では完全に
実力がものをいう、と予想できる。なぜなら、もしあの世があるなら、
すでに先人の努力によって、極めて発展した世界となっているはず
だからである。よって、実力以上の罪を犯してしまい、自分の身を
自分で守ることもできない人は、容赦なく復讐されてしまうのだ。
だがこうした世界は、むしろ積極的に作るべきである。
悪人がいて誰も裁かなければ、奪い放題ということになるからだ。
「きっと神様が地獄に送ってくれるだろう・・・」などと、神様が
人の為にせこせこ労働してくれることを期待していてはいけないのだ。
神任せではなく、人が人を裁く仕組みを作らなければならない。
人を裁くのはいつだって人である。そして、手を汚さずして人を裁く
ことはできない。人を裁く以上、自分も悪になる覚悟が必要である。
もし環境が人を悪くしたならば、逆に人を良くする環境も必要である。
しかし、そうした仕組みがあっても、個人的な復讐は自然に発生する。
やられたらやり返す、これは我々の心の本能なのだ。
誰に教えられたでもなく、生物は子孫を残す。同様に、
誰かからされたことはやり返そうとする。人も動物も。
復讐が人の世の中からなくなることは絶対にない。
なぜなら、復讐とは、性行為に並ぶほど気持ちいい行為だからである。
もし復讐がなくなるとすれば、それは、人類が滅ぶときである。