教育における主役は「教育される側」である



  • 最高の教育は「解放」である。
    教育とは、不自由な世界の中で一方的に教えることなどではなく、
    自由な世界を見せ、自ら成長を望むよう解放することなのだ。
    育てるのではなく、成長を支えることが教育である。


    しかしながら人は他人に対し、自分に近づくことを求める性質がある。
    ゆえに教育では、相手を伸ばすことよりも、
    相手を自分に近づける方向で努力しがち
    である。
    そのような教える側を基準とする教育は、教育者の傲慢でしかない。

    教育における主役は教育される側なのであって、断じて教育する側
    ではないのだ。「教育する側が喋りたいことを喋って終わり」
    というのでは、そもそもそのようなものは教育とは言い難い。
    教育においても、相手目線は意識しなければならないのだ。

    相手目線で教育する相手を見ると、見えてくるものがある。それは、
    「そもそも人は、教えた通りに育ったりはしない」ということである。
    人それぞれ形は決まっており、ゆえに、伸びる方向も決まっているのだ。
    そして「できること」と「できないこと」がはっきりしてくるのである。

    よって、できない人に「なぜできないのか?」と問うても無駄なのだ。
    できない人はできない。これが真実である。「やればできる」
    と思い込めばできるようになる、という単純な話でもない。
    できることであればできるが、やはりできないことはできないのだ。
    何も考えずに無神経に精神論を展開するのは無責任である。

    基本的に、精神論や根性論を振りかざす人は嫌われる。
    その理由は簡単である。「相手目線ではないから」だ。
    そして相手目線ではないということは、知らず知らずのうちに、
    相手からいろいろと「奪ってしまっている」ということなのだ。

    教育のみならず、基本的に人間関係における会話では、
    「自分が気持ち良くなって喋っているとき、
     相手は気持ち悪い思いをして聞いている」
    ものである。
    この場合、話し手が聞き手から「奪っている」のだ。
    気持ちよく会話しているときは注意が必要である。

    ゆえに、説教できるチャンスに舞い上がって、嬉々として相手を見下し、
    隙があれば自慢話を繰り返すような人は、当然ながら嫌われていく
    わけであり、教育どころではない。むしろ教育を教育されるべきである。

    教育と言うくらいならば、
    言っても意味のないことは我慢しなければならないし、
    逆に、相手にとって必要なことであれば、
    言いたくないことでも言わなければならない
    のである。

    となると、教育する側には、ある程度の人格が求められるのだ。
    知識や技量もさることながら、精神面での成熟や忍耐強さも必要である。
    相手を説得することも必要であるし、相手を理解することも必要である。
    知識や頭だけで教育することはできないのだ。

    教えすぎてもいけないし、教えなさすぎてもいけない。
    厳しく教えることも必要だが、優しく無関心になることも必要なのだ。
    その上で、相手にとって必要なことを、相手にとって必要なときに、
    相手にとって必要なだけ、相手に伝えなければならないのだ。

    やはり「教育の主役は教える側ではなく教えられる側」なのである。
    教育する側を中心に、教育される側が動くスタイルではなく、
    教育される側を中心に、教育する側が動くスタイルでなければならない。