頭を使うのが嫌な人は頭が悪い人になる



  • 頭を使うことを苦痛に感じる人と心地よく感じる人がいる。
    頭を使うことを心地よく感じる人は、どんどん思考が洗練される。
    こうして頭が悪い人と頭が良い人の差が顕著になっていくのだ。
    どう考えても、楽しんでそれをやっている人には勝てないのだ。

    頭の悪い人は余力がなく周りが見えていない。例えば、「望みの大学に
    合格できたのは、努力してきたからだ」と考える学生がそうである。
    しかし大学に合格できたのは、まず勉強できる環境があったからであり、
    政府が税金を充て、そして親が支えてきたことが大きいのだ。
    こういった周囲の支えに気づけないのは、考えが至らないからである。

    これはサラリーマンも同様である。会社があり、取引先があり、
    依頼があり、リソースがあって、ようやく仕事ができるのだ。
    もしこれらを一から作るとなると、どれだけの労力がかかることか。
    にも関わらず、「俺が!俺が!」と言っているから、頭が良い人から
    「周りが見えていない頭が悪い人」のような扱いをされるのだ。

    頭が良い人とは、自分の力のなさを知っており、それを
    周囲や環境が補ってくれていることも理解している人
    のことである。
    それはつまり、周囲のことも考えられる、視野の広い人のことである。
    逆に、頭が悪い人は頭を使わないから、自分のことしか考えない。

    当然そんな人が人から高く評価されることはない。なぜなら、
    自分のことしか考えないということは、人に与えることができない
    ということであり、ゆえに、人から与えられることもないのだ。

    こうしたお陰お陰の考え方を発展させると、最終的には宇宙に行き着く。
    法則(原理・原則)があって、地球があって、健康な体があって、
    自然の恵みがあって、ゆえに生きていけることを理解するのである。

    なんてことはない。
    神様への感謝は、他人への感謝の延長線上にあるのだ。
    自分のことしか考えない人もいれば、周りに感謝できる人もおり、
    自然に感謝できる人もいる。ただそれだけの話である。

    さらにお陰お陰の考え方を発展させると、
    自分の体すら自分のものではないことに気づく。
    基本的に、自分で努力して手に入れたものでなければ、
    自分の意思に関係なく失われていく
    のである。

    例えば、肉体ゆえの美貌は努力して手に入れたものではないため、
    老化したくないという意に反してどんどん失われていくのである。
    「この道を追求しても、あなたは幸せにはならない」という、
    意思を持った自然からの厳しくも優しい声のようである。

    努力せず無条件に手に入れたものは自然から借りたものであり、
    いつかは必ず自然に返さなければならない、とも解釈できる。
    何にせよ、いつか失うものを拠り所に幸福を追求することはできない。
    だからこそ、食欲も性欲も、真に幸福の対象とはならないのである。
    そうして自分に残るものがたった一つだけある。それが心の慣性である。