「与えて与えられる」の原則



  • 「与えて与えられる」の原則とは、相手に与えれば、
    相手は与え返したくなり、やがて与え返そうとする
    ことを意味している。
    「与えて与えられる」の原則の反対である
    「奪って奪われる」の原則も同様に成立する。

    これらは、「やられればやられたことでやり返したくなる」という
    人の心の性質によるものである。よって、相手から与えられれば
    与え返そうとし、相手から奪われれば奪い返そうとする
    のだ。

    「相手からされたことは、相手にやり返したくなる」というのは、
    自分と同じ喜びや苦しみを分かち合いたい、という心の性質である。
    自分だけが幸せ、もしくは不幸せになることは、苦痛なのだ。

    よって、相手から何かされると同じことで相手にやり返したくなる。
    これが与え合いであれば、繁栄的な幸せとなっていくが、
    奪い合いであれば、際限ない復讐の連鎖となってしまう。

    そして大抵の場合、相手にやられた分だけお返しすることはなく、
    やや増し増し(125%返しのような)でやり返そうとする。よって
    基本的に、与え合い・奪い合いは規模が大きくなっていくのである。
    こうした背景があり、相手にされたからといって相手にやり返しても、
    それで終わりになることはなく、相手から再びやり返されてしまうのだ。

    例えば、与え合いであれば、
    「こんなにも返してくれて、申し訳ないから、こちらからも返そうか」
    となり再び与え返そうとする。逆に奪い合いであれば、
    「それはやりすぎだろ、やりすぎた分はやり返させてもらおう」
    と再び奪い返そうとする。

    相手からされたことに対してどれだけ返すかは、人それぞれである。
    これは「見たいように見る」の原則である。
    自責の人は人に与えようとし、他責の人は人から奪おうとする。
    与えられて0.75倍で返そうとする人もいれば、奪われて1.25倍で返そう
    とする人もいる。何に対して何をどれだけ返すかは、人それぞれなのだ。

    そうして、相手からされたことに対して(無意識に)評価した結果、
    心の中に「与えたい」もしくは「奪いたい」という想いが育まれるのだ。
    この想いは徐々に強くなり、やがて外へ出ていき相手に届くことになる。
    これは「内から外へ」の原則である。このようにして、
    与え合い・奪い合いの規模は大きくなっていくのである。

    だからこそ、最初に与えた人、もしくは奪った人は、着目されるのだ。
    なぜなら、例えば率先して与えることは、「もしかすると失うだけ」
    になるかもしれないリスクを背負っているからである。
    与えられたことに対して与え返すの誰にでもできるが、
    最初の一歩は大変なのだ。だからこそ高く評価されるのである。

    逆に、率先して奪ったとなれば、
    誰もが自制し、ルールを守り、和を保っている中、
    一人だけルールを破り、楽して得しようとした人と見なされ、
    より一層苦しむべきと考えられ、奪われていくのだ。

    「与えて与えられる」の場合も「奪って奪われる」の場合も、
    それ以上のものを相手に返したくなるという点は同じである。
    善い好循環が生まれれば、ますます幸福になっていくが、
    悪い好循環が生まれれば、ますます不幸になっていくのだ。

    「与えて与えられる」の原則、「奪って奪われる」の原則である。