「見たいように見る」の原則



  • 「見たいように見る」の原則とは、人の評価についての原則であり、
    「評価においては、評価したい人が、評価したい箇所を、
    評価したいように、評価したいだけ、評価する」
    ことを意味している。

    例え同じものを見たとしても、
    人によって感じ方や解釈の仕方が異なる
    ということである。
    だがそれは当然の話である。人それぞれ経験してきたことが違う以上、
    成長すればするほど他人と違ってきて当たり前なのだ。

    同じものを見たとしても同じように感じるわけではないし、
    同じことを聞いたとしても同じように受け取るわけではない。

    価値の分からない人が見ればただのゴミであっても、
    価値の分かる人が見れば宝石に見えるものである。
    それ自体に普遍の価値があるわけではなく、
    それがゴミか宝石かは、見た人が価値を見出して決めているのである。

    「見たいように見る」の原則において、評価の基準は、評価される側
    にあるのではなく、評価する側にあるのだ。
    評価する人の能力や
    趣味嗜好、または流儀や気質によって、評価の着眼点は異なるかも
    しれない。だがどのような評価であっても、評価の基準は評価する側
    にあるのであり、評価される側が評価の基準を決めるわけではない。

    これは、会社の人事評価もそうであるし、学校の成績もそうである。
    会社の人事評価は、上司の勝手で評価されており、評価の基準が
    評価する側にあると分かりやすい。対して学校の成績は、教師の勝手
    で理不尽な評価はできず、評価する側に基準はないように見える。
    しかしそうではない。やはり評価の基準は評価する側にあるのだ。

    確かに学校の教師には、会社の上司ほど自由な評価は許されていない。
    評価の方針は既に定められており、これに従って学生を評価するしか
    ないのだ。ということは、評価しているのはその基準を作った側
    ということになる。それはつまり、若者に期待をかけている日本という
    「国」である。国が評価する側となり評価する基準を作っているのだ。

    社員も学生も、自分たちが評価されたいところだけを
    評価されたいだけ評価される、というわけにはいかないのである。
    評価するのは、評価される側ではなく、評価する側なのだ。

    「俺は客だ!」と自分で自分を勝手に定義し、
    どちらが上かと決めにかかることも原則に反している。
    評価するのは、評価される側ではなく、評価する側なのだ。

    このことは、特に人間関係で意識しなければならない。
    評価する基準が評価する側にあり、評価は人それぞれということは、
    すべての人に対して上手くいくやり方は存在しないということなのだ。

    もし相手にとってマイナスであれば、相手からマイナスな反応をされ、
    逆にプラスであれば、プラスな反応をされるのである。
    ただし、何に対してどう反応するかは相手によって違う。したがって、
    相手に応じて接し方を変えなければ、人間関係は冷めていくのである。

    ここまでで、評価する側の人を絶対的なようにして説明してきたが、
    その評価する側の人も、どこかで評価される側の人になるのだ。
    誰もが誰かを評価し、誰もが誰かから評価されるのである。
    もしかすれば、評価する人の評価能力が評価されているかもしれない。

    評価においては、評価したい人が、評価したい箇所を、
    評価したいように、評価したいだけ、評価するのである。
    「見たいように見る」の原則である。