「内から外へ」の原則
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「内から外へ」の原則とは、心の内側にあるものはやがて形を成し、
いつかは必ず心の外側へ出ていくことを意味している。
「内」とは概ね「心の中」を指す。逆に「外」とは概ね
「自分以外の誰か」を指す。つまり「内から外へ」の原則は、
「自分の心の中から自分以外の誰かへ」ということである。
内から外へ出ていくものとしては、主に行為や情報がある。例えば、
「考えて行動する」というのは、行為における内から外への流れである。
行為は、仏教では三業(意業・口業・身業)に分類し解釈されている。
三業とは、その名の通り、三つの業である。三つの業とは、
意業: 思考すること、決断すること、想像することなど
口業: 言葉にすること、喋ること、文章を書くことなど
身業: 行動すること、実行すること、創造することなど
を指す。私たちの行為はこのいずれかであると説かれている。
この三業に「内から外へ」の原則を当てはめると、
「意業→口業」もしくは「意業→身業」の順で行為がなされると示せる。
行為は必ず意業から始まり、口業や身業となって外へ出ていくのだ。
またこのとき、心の中にある情報も外へ出ることになる。
意業は観察できないが、身業は他人から観察できるのだ。
ゆえに、身業(行動)から意業(心中)を察することができるのである。
この意味で、情報も内から外へ出ていると言えるのだ。
それどころか、心の中を直接覗き見る仕組みが整いつつある。今や、
生体技術が発達し、脳波を読み取り情報を取得できる時代となった。
それはつまり、機器を介して心の中を直接観察できるということである。
「喋らなきゃバレない」と思っている人は、
心の中は観察できないから絶対安全だと安心している。
「誰にも知られない以上、
自分から言わない限り絶対にバレない」と。しかし、
その絶対に安全だと思われていた領域も崩れ、
喋らなくてもバレる時代となりつつあるのだ。
もっというと、バレるということは、
過去のこと「すべて」がバレるということである。
というのも当然の話で、過去の情報も記憶として保存されている
のであれば、保存された時刻に関係なく読み取れてしまうのだ。
つまり、今は情報が読み取れないとしても、
技術が確立され仕組みが整ってしまえば、未来のある時点で、
まさに今の情報を読み取ることができるようになるのである。
今バレていないからといって、逃げ切れたわけではないのだ。
もし魂の奥底に情報が刻み込まれ保存されているのだとしたら、
例え何億年前の記憶であっても正確に生々しく再生できてしまう。
もはや逃げようがないのである。
※そういう世界がいつか実現する、と昔の賢い人たちは予想し、
完全にバレる世界を基準にして、人生や生き方を考察した。
だが逆に、バレるということは察してくれるということでもある。
いちいち口にしなくても伝わる以上、コミュニケーションは楽になる。
より便利な世界になったともいえるのである。そういう世界で
あればあるほど、「内から外へ」の原則は顕著になっていくのだ。
善いことも悪いことも「内から外へ」である。