「罰」とは成長に対する「抵抗」である



  • 罪に対して、罰とは何だろうか?
    「悪いことをすれば痛い思いをしなければならず、
     どれだけ痛い思いをすればいいのかを示す指標が罰」と、
    そんな印象をお持ちではないだろうか?

    罰には、内側からくる罰と、外側からくる罰がある。
    前者は自分で自分を裁く罰で、後者は他人からの応報の罰である。
    「目には目を、歯には歯を」というのは応報の罰であり、対して、
    過去に犯した過ちによって罪悪感を感じるというのは前者である。
    ここでは前者の自分で自分を裁く罰を取り挙げる。

    タイトルの通り、罰とは成長に対する抵抗である。
    そして罰とは罪に対するものである。
    つまり、罪を犯せば犯すほど、罰として成長が遅れるということである。
    例えば、人を殺せば、その分、自分の成長が遅れることになる。

    というと、
    「人を殺しておいて、成長が遅れる程度で済むわけねーだろーが!」
    と思うかもしれないが、それもそうではない。
    成長できないとは、殺されるよりも辛い苦痛なのだ。

    もし、人を1人殺したなら、最低でも、
    最低でも1回は誰かに不意に殺されなければならない。
    「やったのだからやられろ」というのは人間として当然の心理である。
    しかし、誰からも殺されるチャンスがなければ、
    自分独りでこの罪を反省しなければならなくなる。


    もしそのために250年の時間がかかるとしたらどうだろうか?
    250年間誰とも会話せず過ごすか、それとも誰かに1回殺されるか、
    どちらか選べと言われれば、殺された方が楽ではないだろうか?
    ※実際は選択肢など与えられない。

    なぜそんなに時間がかかるかというと、
    誰かに殺されるのであれば、外部から力が与えられることになるが、
    自力で反省するとなると、自分で力を作らなければならないからだ。

    作用・反作用の法則もあり、作れる力の大きさにも限界がある。
    よって、精神がおかしくなるほどの時間がかかるのだ。

    仮に精神がおかしくなったとすれば、それもまた慣性の結果と言える。
    反省も行為(業)であり力Fであり、ゆえに心mに変化aをもたらす。
    膨大な時間tをかけて反省Fを繰り返すと、必ず心mに影響aが現れる。
    ※力Fの反作用-Fによって心mに変化aが生じ、ゆえに慣性が変わる。

    当然、罪も行為(業)であり力Fであり、ゆえに心mに変化aをもたらす。
    つまり、慣性は罪によっても反省によっても、変化するのである。
    反省によって変化した慣性をさらに反省するわけであるが、
    こうした反省を繰り返すことで、ちょっとずつ慣性が収束していくのだ。
    ということで、やはり罪の反省には膨大な時間がかかるのである。

    こうした慣性によって、得るものや失うものが出てくるわけだが、
    一般的には、罪を犯せば得るものより失うものの方が大きくなる。
    だからこそ犯罪者は足を洗おう(慣性を正そう)と努力するのだ。
    これは、もし罪を犯さなければ、かける必要のなかった労力である。

    罪とは、望みの方向に逆らう慣性を作ってしまう行為を指す。よって、
    罪の基準は人それぞれである。および、後から罪と気づくことが多い。
    そして、望みの方向と慣性が一致していないということは、自分の
    気持ちを押し殺して努力し続けなければならないことを意味する。

    ゆえに、そのような慣性は成長を妨げる抵抗でしかないのだ。
    そしてこの慣性を反省するとなると膨大な時間が必要になり、
    やはり成長を遅らす原因にしかならない
    のである。



    【補足】

    ただしそれは、自分で自分を裁く自業自得による罰の場合の話である。
    他人からの応報による罰の場合はそれとは異なる。自業自得は心の内側に
    着目した概念である。ゆえに、同じく心の内側に着目する原理の観点で、
    力学に則り解釈する。一方、他人からの応報による罰は、人間関係の中で
    発生する現象であり、こちらは、原則の側で取り上げて説明する。