「罪」は力Fであり心mに変化aを生じさせる



  • 「罪」とは行為(業)であり、心mに変化aを生じさせる力Fである。
    罪を犯すことで心が変化し、それがそのまま心の慣性となる。
    罪を犯す(自業)と、それがそのまま自分の未来(自得)となるのだ。
    ※力Fの反作用-Fによって心mに変化aが生じ、ゆえに慣性が変わる。

    業は三業(意業、口業、身業)に分類できる。
      意業: 思考すること、決断すること、想像することなど
      口業: 言葉にすること、喋ること、文章を書くことなど
      身業: 行動すること、実行すること、創造することなど
    罪も行為であり、このいずれかの業によって成される。

    一般的に罪というと、口業や身業によるものを指す。
    意業は思考であり、誰も頭の中までは責められないからである。
    しかし実際は、意業が口業となり、そして身業となるわけで、
    意業こそが罪の種なのであり、最も重視すべき業なのだ。

    そういうと、
    「頭の中で悪いことを想像したくらいで何の罪に問われるんだ?
     別に誰かに迷惑をかけたわけではないのだから、
     頭の中でどんな想像をしようがそれは個人の自由だろ!」

    と思うかもしれない。

    だが、それは甘い。その考えは、
    他人から見てどうかという考え方なのだ。そういう考えの人は、
    罪を恐れているというより、周囲の反応を恐れているのだ。

    だがここでは、周囲の反応はどうでもいい。
    恐れるべきは他人の反応ではなく、罪の慣性による自分の未来である。
    他人の中に自分を見出そうとする人には分からない考え方であろうが、
    自分で自分の人生を生きようとする人にとっては重要な考え方である。

    だからこそ仏教では昔から意業を最も重視し、
    頭の中で何を考えたかという、思考のレベルで罪を問うのである。
    善悪を厳しく判断し、自発的に自分で自分を裁いているのだ。

    このような自分で自分を裁く者にとっての善悪の基準は、法律ではない。
    宗教上の戒律でもない。自分自身の未来である。
    その行為を成したとき、未来の自分が不幸になるならば、
    その行為をとみなし、未来の幸福のために罪を改める
    のである。

    決して、誰かに注意をされて改めるというものではない。自らの意思で
    自らの幸福のために改めるのである。そして、罪を改めるとは、
      ①罪とみなした行為(業)を行わないようにする
      ②罪(業)によって生じた心の慣性を変える(元に戻す)
    ということであり、ゆえにそれ相応の力が必要になる。

    慣性を変えるためには、力Fをかけ心mに変化aを生じさせる必要がある。
    このとき必要な力Fは心の質量mに比例して大きくなる。
    この意味で、子供より大人の方が改心に労力を要するといえる。
    また、犯した罪の大きさによって必要な変化aも大きくなることから、
    それに比例して必要な力Fも大きくなる。

    ここで、改めるべきは原因であって、結果ではない。
    というより、結果は努力して変えることができない。
    できるのは、その結果に至る原因を改めることだけである。

    意業である思考は行為(原因)であるため、改めることができる。
    しかし、心の感じ方となればそれは結果であり、改善の努力ができない。
    例えば、卑しいことを考えて生きてきた人は、心が卑しく反応する。
    卑しくなった心に対して「元に戻れ!」と念じても元には戻らない。
    心を改めようとすれば、そのための原因を作らなければならないのだ。

    ではどう改めればいいかというと、それは試行錯誤である。どのような
    原因を作れば「あなたの心」がより良くなるかは、あなたしか知らない。
    F=ma、三業、自業自得、これらの考え方に当てはめ、原因と結果の
    組み合わせを探るしかないのだ。
    血眼になって探るしかない。しかし、
    一度でも闇に堕ちた者に這い上がる道など、そうそうないのである。



    ということは分かっているはずなのに悪事に手を染めてしまうのが人間
    である。「もう二度としない。家族のためにも足を洗う!」と、あれほど
    自分に言い聞かせたにも関わらずそれでもやってしまうのが人間である。
    その背中を強く押しているのは慣性という名の過去のあなたなのだ。